引用:NHK
麒麟がくるのドラマが終わった後のおまけパートまとめになります。おまけは登場人物のゆかりの地などの紹介になります。
- 概要
- おまけパート
- 第1話「明智城」
- 第2話「稲葉山城」
- 第3話「土岐氏一日市場館跡と枝広館跡(長良公園)」
- 第4話「津島神社と古渡城跡(東別院)」
- 第5話「国友町」
- 第6話「花の御所跡石敷きの遺構」
- 第7話「熱田神宮」
- 第8話「那古野城跡」
- 第9話「妻木城」
- 第10話「岡崎城と加藤図書助屋敷跡」
- 第11話「興聖寺」
- 第12話「万松寺」
- 第13話「鷺山城跡と法雲寺」
- 第14話「聖徳寺と村木砦」
- 第15話「臨済寺」
- 第16話「大桑城」
- 第17話「常在寺」
- 第18話「一乗谷朝倉氏遺跡と称念寺」
- 第19話「清州城」
- 第20話「大高城」
- 第21話「善照寺砦と沓掛城」
- 第22話「興福寺」
- 第23話「小牧山城」
- 第24話「公方屋敷跡と矢島御所跡」
- 第25話「織田信長公居館跡」
- 第26話「御所・安養寺跡」
- 第27話「開口神社」
- 第28話「旧二条城復元石垣、京都御苑内」
- 第29話「近衛邸跡、京都御苑内と興禅寺」
- 第30話「妙覚寺」
- 第31話「国吉城跡と金ケ崎城跡」
- 第32話「姉川古戦場跡」
- 第33話「比叡山延暦寺」
- 第34話「興福寺と菅田比賣神社」
- 第35話「常泉寺と頭陀寺城跡、松下屋敷跡」
- 第36話「坂本城跡」
- 第37話「槙島城跡、推定地と枇杷庄天満宮社」
- 第38話「高桐院、大徳寺塔頭」
- 第39話「西教寺」
- 第40話「信貴山と達磨寺」
- 第41話「安土城跡」
- 第42話「有岡城跡」
- 第43話「八上城跡と福知山城」
- 最終回「本能寺の変」
概要
引用:NHK
大河ドラマの物語も楽しいですが登場人物のゆかりの地も紹介されていたので載せてみました。
より深くドラマを楽しみたい、または行ける場所にあるからせっかくだから行ってみようと思えるきっかけになってもらえたらと思います。
個人的に100名城を回ったりしているので、その際に寄ったりできたらと思っていますし、行ける場所にあったら行ってみたいなと思っています。
少しでも大河ドラマをより楽しむアクセント、または観光の役に立てたら嬉しいです。
おまけパート
この項目画像は[NHK]からの引用になります
第1話「明智城」
第1話のおまけは明智城についてでした。
明智光秀の前半生は謎に包まれていますが、光秀は土岐明智氏の出身ではないかと言われています。土岐明智氏は鎌倉時代後期に美濃へ来た一族で、東美濃に強い影響力を持っていました。そしてこの地には土岐明智氏、歴代墓所(天龍寺)があります。
そして光秀の故郷についても諸説ありますが、その中でも有力な故郷の一つとして岐阜県可児市があります。可児市はかつて明智荘が広がっていた場所で、水田には明智家屋敷の推定地があります。
そして明智荘には見守るようにそびえる長山があり、ここに明智城がありました。明智城は光安が収めていましたが自然の地形を生かした山城で、今も大手門や本丸跡などが残されています。
そんな可児市で光秀は青春時代を過ごし、大きく成長していったと言われています。
交通
明智城
名鉄広見線「明智駅」下車、徒歩25分
第2話「稲葉山城」
第2話のおまけは稲葉山城についてでした。
稲葉山城は岐阜県岐阜市にある金華山にある山城です。金華山は標高329mある岐阜市のシンボルで、旧名で稲葉山とも呼ばれていました。
そして稲葉山城は道三が改修をして難攻不落の城となりました。また道三は城下町も整備し、山の麓には館を築きました。
そんな稲葉山城は今も当時の石垣が残されていて、かつての井ノ口には惣構の土塁や稲葉山城に続く道である七曲通あり、当時の面影を感じることができます。
そしてこの稲葉山城はたびたび織田信秀に攻められ戦地となったため、織田軍を弔う織田塚も残されています。
そんな稲葉山城は道三が勢力を拡大するために拠点としていた城でした。
交通
稲葉山城
JR「岐阜駅」からバス「岐阜公園・歴史博物館前」下車後、徒歩5分
第3話「土岐氏一日市場館跡と枝広館跡(長良公園)」
第3話のおまけは土岐氏一日市場館跡と枝広館跡(長良公園)についてでした。
岐阜県瑞浪市は土岐一族の居場所だったと言われいています。この地には土岐川や土岐氏一日市場館跡(一日市場八幡神社)など土岐家に縁のある場所があります。また頼芸が築いた館の一つ、枝広館跡は現在の長良公園にあったと言われています。
そんな土岐一族は鎌倉時代にこの地に来て土岐を名乗ったと言われており、室町時代には足利将軍を支える武士団として活躍し幕府と繋がりを持ちました。
そして土岐一族の桔梗紋は土岐一族の始祖・土岐光衡が兜に桔梗を刺して戦ったところ敵を打ち破ったことにちなんで家紋にしたと言われています。そして土岐一族の分家筋である明智家も桔梗紋を用いていました。
交通
土岐氏一日市場館跡
JR「瑞浪駅」下車5分
枝広館跡(長良公園)
JR「岐阜」からバス長良公園前下車すぐ
第4話「津島神社と古渡城跡(東別院)」
第4話のおまけは津島神社と古渡城跡(東別院)についてでした。
愛知県津島市に織田家の繁栄を支えた津島湊がありました。津島湊は尾張と伊勢を結ぶ河川交通で、交易が行われる都市でした。信秀の父親である信定はこの地を掌握して経済力を高めて、信秀の代で飛躍をみせて尾張統一への躍進をみせました。津島湊跡は現在の天王川公園となっています。そして津島神社は織田家が氏神と仰ぎ、造形にも協力したと言われています。
そして愛知県名古屋市には古渡城跡があります。古渡城跡は現在の真宗大谷派名古屋別院(東別院)となっています。この古渡城跡(東別院)は信秀が築いた場所で、隣接する下茶屋公園では現在も堀の跡を見ることができます。
交通
津島神社
名鉄津島線「津島駅」下車15分
古渡城跡(東別院)
地下鉄名城線「東別院駅」下車5分
第5話「国友町」
第5話のおまけは国友町についてでした。
滋賀県長浜市の琵琶湖に注ぐ姉川の麓に、鉄砲の産地として名を遺した国友町があります。国友町はもともと鍛冶師が多かったですが、種子島に銃が伝わってからは銃の産地として有名になりました。
その後太平の世になると銃に装飾品が施されるようになりました。そしてその装飾品は神輿など工芸品作りに引き継がれていきました。
交通
国友町
JR「長浜駅」からバス「国友鉄砲の里資料館前」下車すぐ
第6話「花の御所跡石敷きの遺構」
第6話は足利将軍家と三好長慶についてでした。
足利将軍家は京都府京都市の室町の地に身を置いて栄華を極めました。
しかし京は応仁の乱など戦が繰り返されたことにより町が被害を被り、徐々に幕府の権力基盤が揺るいでいきました。
そんな室町には同志社大学・室町キャンパス、寒梅館(今出川校地)、花の御所跡石敷きの遺構、足利将軍家邸宅跡地などがあります。
そして幕府が弱って頭角を現していったのが三好長慶でした。そして長慶が畿内で最初に拠点をおいたのが越水城でした。越水城は四国から淡路島を通り京都へ連絡する重要な地点でした。
そして兵庫県西宮市には越水城跡や平安時代から水が湧き出ていると伝わる越水井戸があります。
交通
花の御所跡石敷きの遺構
地下鉄鳥丸線「今出川駅」下車、徒歩5分
越水城跡
阪急電鉄神戸線「夙川駅」下車、徒歩15分
第7話「熱田神宮」
第7話は熱田神宮についてでした。
愛知県名古屋市にある熱田はかつて伊勢湾水上交通の要となる熱田湊がありました。そして信秀は津島とともに熱田を掌握して多くの富を得ていました。
そんな熱田には年間700万人が訪れる熱田神宮があります。この熱田神宮の社はかつて海に面していました。そして熱田神宮には三種の神器の一つ、草薙の剣が祀られています。また信長が奉納した堀、信長堀や樹齢1000年を超えると言われる大楠もあります。
そして道三が帰蝶を信長に嫁がせたことによって斎藤家と織田家の関係を深めていくこととなりました。
交通
熱田神宮
名鉄名古屋本線「神宮前」下車、徒歩3分
第8話「那古野城跡」
第8話は那古野城についてでした。
名古屋城は愛知県名古屋市にある愛知を象徴する城です。この城は徳川家康が西への抑えとして江戸時代に築いた城でした。
そんな名古屋城にはもともと今川氏の城、那古野城があったと言われています。(現・名古屋城二の丸庭園)
そして信秀はこの地を今川から奪い取ると幼い信長を城主としました。
そしてここには信長の学び舎である天王社(現在の那古野神社)があったと言われています。そしてこの天王社は今川との合戦で消失した社殿を信秀が立て直したと言われています。
また神主だったと言われる織田家の祖先は神社の木瓜紋を家紋にしたと言われています。
そして天下取りへと快進撃を続けた信長の活躍は、この名古屋の地から始まりました。
交通
那古野城跡
地下鉄名城線「市役所」下車、徒歩5分
第9話「妻木城」
第9話は妻木城についてでした。
熙子は岐阜県土岐市にある妻木豪の豪族の娘といわれています。そして妻木城士屋敷跡はこの地にありました。
妻木城は山頂に築かれた山城で、土岐一族の流れをくむ妻木氏が城主として城を治めていました。現在は堀切やくさび跡が残る巨石が残っています。
またこの地では良質な土が取れるため焼き物の産地としても知られています。そして現在も元屋敷東窯出土志野焼や元屋敷陶器窯跡などが残されています。
そして城主である妻木氏は焼き物を奨励し現在の美濃焼の基礎を作りました。
交通
妻木城跡(本丸跡)
JR多治見駅からバス「妻木上郷」下車、徒歩40分
第10話「岡崎城と加藤図書助屋敷跡」
第10話は岡崎城と加藤図書助屋敷跡についてでした。
竹千代は愛知県岡崎市にある岡崎城の坂谷邸で生まれました。しかし竹千代の母である於大の方は竹千代が生まれると離縁され、竹千代は幼いながらに母親と離れ離れとなりました。そんな岡崎城には今も東照公産湯の井戸が残されています。
そして旧東海道本宿には松平家の菩提寺法蔵寺があります。竹千代はこの寺で松平家の後継者としての教育を受けたと言われています。そして法蔵時には竹千代が残したものとされる落書きが書かれた机があり、また伝・竹千代の書もあります。
その後幼くして織田家の人質となった竹千代は熱田の豪商、加藤図書助の屋敷・羽城に幽閉されました。そして名古屋市には今も加藤図書助屋敷跡が残されています。
こうして竹千代は幼くして翻弄された人生を送りましたが、そんな中で竹千代は天下人となる成長を遂げていきました。
岡崎城
名鉄名古屋本線「東岡崎」下車、徒歩15分
加藤図書助屋敷跡
地下鉄名城線「伝馬町」下車、徒歩3分
第11話「興聖寺」
第11話は興聖寺についてでした。
滋賀県高島市にある安曇川の中流に朽木荘がありました。そしてこの地には多くの物資が行き交う鯖街道(若狭街道)があり、土地を掌握していた朽木氏は室町幕府に大きな影響力を持っていました。
そして朽木氏岩神館があったとされる場所には現在興聖寺があります。この朽木氏岩神館は足利義晴が都の戦乱を避けるため身を寄せていました。そして館の庭には銀閣寺を元に作られたとも言われている旧秀類寺庭園(足利庭園)があります。そして義輝もたびたびこの地に逃れていました。
交通
興聖寺
JR「安曇川」からバス「朽木学校前」下車、徒歩15分
第12話「万松寺」
第12話は末盛城跡と万松寺についてでした。
愛知県名古屋市にある末盛城(末森)城跡、(現・城山八幡宮)は織田信秀が三河からの侵攻に備えて築城した平山城です。信秀は古渡城からこの城に移り居城としました。
織田信秀は織田家の一分家でありながら本家を凌ぐ勢いで台頭しましたが志半ばで末盛城で亡くなりました。そんな末盛城跡の周りに張り巡らされた深い堀跡は今もなお当時の名残をとどめています。
そして万松寺は信秀が創建した織田家の菩提寺です。信長が喪主となり万松寺で信秀の葬儀が執り行われました。家督を継いだ信長は父信秀の意思を引き継ぎ更なる高みを目指していくこととなりました。
そして万松寺には今も織田信秀公木像(万松寺蔵)が残されています。
交通
万松寺
地下鉄名城線「上前津」下車、徒歩3分
第13話「鷺山城跡と法雲寺」
第13話は鷺山城跡と法雲寺についてでした。
岐阜県岐阜市には一時頼芸の居城だったと言われている鷺山城があります。そしてこの鷺山城からは稲葉山城(現・岐阜城)を望むこともできます。そして守護土岐氏が納めていたこの地はかつての美濃の中心地でした。
しかし土岐一族は家督を巡る骨肉の争いが絶えませんでした。そして頼芸は道三の力を借りて守護の座につきましたが、頼芸は力を増す道三を前に実権のない形だけの守護となりました。
そんな頼芸は鷹をこよなく愛し多くの鷹の絵を残しています。その絵は土岐の鷹と呼ばれるほど高く評価されていて、土岐頼芸の作と伝わっている絹本著色・鷹の画は南泉寺に残されています。
そして岐阜県絹斐川町には土岐頼芸の菩提寺法雲寺があります。
頼芸は美濃を追放され各地を転々としましたが、再び美濃に戻ったのは晩年のことでした。かつての家臣稲葉氏によって頼芸は美濃に戻ることができました。そして頼芸は81歳のときこの地で静かに息を引き取ったと伝えられ、頼芸の墓は今も残されています。
交通
妻木城跡(本丸跡)
JR多治見駅からバス「妻木上郷」下車、徒歩40分
第14話「聖徳寺と村木砦」
第14話は聖徳寺と村木砦についてでした。
愛知県一宮市にある木曽川に面したこの地で織田信長と斎藤道三は初会見をしたと言われています。この辺りは江戸時代には渡し船が行き交っていたとようですが、かつては水深が浅く道三達は馬で川を渡ることができたようです。
そして兵を連れた信長達は尾張から美濃へと続く街道を進み富田村へと入りました。そして二人が会見した聖徳寺後は当時富田村があったとされる場所に今も残されています。このとき道三は娘婿である信長を高く評価したと言われています。
そんなこの地には起渡船場跡が残されています。そして江戸時代には美濃路に富田一里塚が設けられました。
そして愛知県東浦町にあった村木砦ですが、会見の翌年に信長は今川氏との戦いのため村木砦に向かいました。そして村木神社には信長が本陣とした天王社があります。そんな中斎藤道三は信長が出陣したことで留守となった那古野城を守るため兵を送ったと言われています。そして道三は信長とは良好な関係を築いていった一方で、嫡男の高政とは関係が悪化していきました。
交通
聖徳寺跡
JR「尾張一宮」からバス「起」下車、徒歩15分
村木砦
JR「尾張森岡」下車、徒歩5分
第15話「臨済寺」
第15話は臨済寺についてでした。
静岡県静岡市はかつて今川家の本拠地で駿府と呼ばれていました。
そして臨済寺は太原雪斎が開山となり創建された今川氏の菩提寺で、今もなお修行僧の聖地として名を馳せています。そして臨済寺には太原雪斎木像や雪斎長老陣中之袈裟が今も残されています。
太原雪斎は幼少期の今川義元の教育係でもあり、義元が家督を継いだ後は外交から軍事面まで今川氏を支えた功労者でした。また雪斎は後の家康である竹千代も教育したと言われています。そんな雪斎は黒衣の宰相とも呼ばれていて駿河の今川氏になくてはならない存在でした。
そして竹千代君手習いの間は現在復元されています。
交通
臨済寺
JR「静岡」からバス「臨済寺前」下車、徒歩3分
第16話「大桑城」
第16話は大桑城についてでした。
岐阜県山県市に土岐氏が築いた美濃の守護所、大桑城がありました。
標高400メートルの古城山の近くには曲輪や堀、石垣と思われる遺構が残されています。また麓には城下町が作られ、美濃の中心地として賑わっていたと伝えられています。
そんなこの地は掘りや土塁で堅く守られていましたが、斎藤道三によりたびたび攻められ大桑城も落城したと言われています。そして戦いに敗れた土岐氏はやがて守護としての立場に終わりをつげることとなりました。
そして義龍の謀反によりこの地に逃れた道三は雪解けを待ち息子との対決の地に向かいました。
交通
大桑城跡(古城山登山口)
JR「岐阜」からバス「岐北厚生病院前」乗り換え
「椿野」下車、徒歩15分 ※日・祝運休あり
第17話「常在寺」
第17話は常在寺についてでした。
岐阜県岐阜市にある金華山の麓には長良川があります。そしてこの地で道三と義龍は対決しました。
決戦の前、道三は稲葉山の北にある鶴山に陣を構えたと伝わっています。しかし道三に味方するものは少なく、戦の中で道三は討ち死にしました。そして遺体は埋葬され道三塚が築かれました。
出家して家督も譲った道三は「この世に何もないわが身に、どこに終の住処があるのだろう」と辞世の句を詠んでいます。
そして常在寺には絹本著色、斎藤道三像があり、更に斎藤道三供養塔があります。
下剋上により一国一城の主となった道三でしたが、嫡男義龍の謀反により命果てることとなりました。
交通
常在寺
JR「岐阜」からバス
「岐阜公園歴史博物館前」下車、徒歩5分
第18話「一乗谷朝倉氏遺跡と称念寺」
第18話は一乗谷朝倉氏遺跡と称念寺についてでした。
福井県福井市に一乗谷朝倉氏遺跡があります。この地はかつて越前を支配した朝倉氏が拠点を置いていました。山城の麓に広がる街には様々な建物があり、最盛期には1万人が暮らしていたと言われています。
そしてこの場所には現在下城戸や復原町並が残されています。また城下町の中心には朝倉館跡が残されていますが、17棟の建物が築かれたこの場所では政治などの諸事が行われました。
そして明智光秀は一時期越前の地に身を寄せたと語られています。光秀は福井県坂井市にある称念寺の門前に居を構えて住職を交流を深めたと言われています。
称念寺には鎌倉時代から置かれた仏像があり、この仏像には光秀も手を合わせたと寺に伝えられています。
交通
一乗谷朝倉氏遺跡(朝倉館跡)
JR「一乗谷」下車、徒歩25分
称念寺
JR「丸岡」からバス「舟寄」下車、徒歩10分
第19話「清州城」
第19話は清州城についてでした。
清須は斯波氏によって守護所が置かれて以来、尾張の政治の中心地として栄えた場所です。
この地を掌握した織田信長は那古野城から清州城(当時の表記は清須城)に身を移しました。
当時の清州城には天守はなく館があったといわれています。そんな清州城の発掘調査では幅8メートルを超える掘りの跡が発見されました。また現在の清洲公園には信長公出陣の像があります。
そして清須城の近くにある五条川には川港が築かれ多くの物資や人が行き交って栄えました。そして信長は商人などを集めて城下町造りに勤しみ、この清洲から尾張統一を目指しました。
交通
清州城
名鉄名古屋本線「新清洲」下車、徒歩15分
第20話「大高城」
第20話は大高城についてでした。
今川義元の侵攻に備えて織田信長はこの地に砦を築きました。その一つが鷲津砦です。今川家の城と城の間に築かれたこの砦は今川家の補給路を断つ役割をしていました。
そして鷲津砦と同時期に築かれた丸根都砦には500人余りの織田軍がいたといわれています。そんな中徳川家康は孤立した今川軍に兵糧を運ぶように命じられました。その際家康が進軍した道が今も残されています。
そして家康は織田軍の監視をかいくぐり、見事大高城へ入城することに成功しました。そしてこの大高城は尾張攻略の最前線となった場所でした。
そんな大高城の本丸の後には当時よりこの地に鎮座する城山八幡社が今も祀られています。
交通
大高城跡
JR「大高」下車、徒歩13分
第21話「善照寺砦と沓掛城」
第21話は善照寺砦と沓掛城についてでした。
この地には織田信長が今川義元との決戦を前に兵を集結させた善照寺砦があります。信長は兵を率いてここから決戦の地、桶狭間へと向かいました。
戦場は名古屋市緑区から豊明市にかけての旧領地一帯だったといわれています。そして現在もこの地には桶狭間古戦場公園や桶狭間古戦場伝説地などが残されています。また桶狭間古戦場公園には織田信長像と今川義元像があります。
そして義元が桶狭間前夜を過ごした沓掛城跡は、今は市民の憩いの地となっていて、曲輪や空堀などが当時の面影として残されています。
そして義元は徳川家康がいる大高城へ向かう途中、桶狭間に立ち寄ったといわれています。その後信長は織田家最大の敵、今川義元を討ち破りました。そしてその歴史的勝利は今なお語り継がれています。
交通
善照寺砦跡
名鉄名古屋本線「鳴海」下車、徒歩10分
沓掛城址
名鉄名古屋本線「前後」からバス「二村台七丁目」下車、徒歩15分
第22話「興福寺」
第22話は興福寺(奈良県奈良市)についてでした。
かつて大和の国と呼ばれた奈良県。武士ではなく寺社勢力が支配する国でした。そんな中で守護大名にかわり実質的な守護をしていたのが興福寺でした。そして興福寺には現在も東金堂、五重塔、中金堂などがあります。
そんな興福寺には畿内の武士で家督を相続することのない男子が出家しました。足利義昭もその1人でした。
そして久秀はその興福寺を抑えて大和の国を制圧しました。その後久秀が築いたのが多聞山城でした。この城は興福寺や奈良の街道を見渡せる山に築かれました。現在は堀切跡が残っていて本丸跡に中学校が建っていますが、久秀の時代にはその本丸に天守閣の先駆けとなった高矢倉が築かれていました。そしてこの高矢倉はこの後建築された城造りに影響を与えました。
そして久秀は三好長慶の元で一国の主まで上りつめました。そんな久秀は三好長慶亡き後大和の国から畿内の情勢を伺っていました。
交通
興福寺
近鉄奈良線「近鉄奈良駅」下車、徒歩5分
第23話「小牧山城」
第23話は小牧山城(愛知県小牧市)についてでした。
信長は美濃攻めの拠点として小牧山に城を築きました。小牧山城は山上に通じる大手道があり、山全体を取り囲むように曲輪の跡があり、麓には信長の館があったと考えられています。そして城の頂上には大きな石垣が積み重ねられていますが、その様子は近世城郭の原点とも言われています。
さらに信長は何もない城の南側に城下町をつくりました。そして信長は清洲から巾下川を使って水運で物資を運んだと言われています。そして商人や職人たちも移り住まわせました。また信長は清洲の御園明神社を分祀して小牧明神社を作り理想の街を1から作り上げました。
そして居城を清洲から小牧に移した信長は斉藤義龍の子、龍興と激しい攻防を繰り広げました。
交通
小牧山城
名鉄小牧線「小牧駅」よりバス「小牧市役所前」下車すぐ
第24話「公方屋敷跡と矢島御所跡」
第24話は公方屋敷跡(滋賀県甲賀市)と矢島御所跡(滋賀県守山市)についてでした。
将軍足利義輝亡き後、義昭は大和から和田谷に逃れてきました。和田谷は義昭の逃亡を助けた和田惟政(これまさ)の本拠地で伊賀から続く道沿いに築かれた狭い谷です。
そして和田城はいくつもの館や城がこの谷を守るように配置されていて、この谷が1つの城のように機能していたと言われています。その中には和田支城や公方屋敷支城などがありました。そして公方屋敷邸跡は義昭が隠まわれていた場所だと言われています。
その後現在の滋賀県守山市である琵琶湖畔守山に向かった義昭は少林寺に入り、その後ほどなく矢島御所が作られたと言われています。そしておよそ10ヵ月この地で暮らした義昭は還俗して流浪の日々を送りました。
交通
公方屋敷跡
JR「油日駅」下車、徒歩11分
矢島御所跡
JR「守山駅」からバス「矢島南口」下車、徒歩3分
第25話「織田信長公居館跡」
第25話は織田信長公居館跡(岐阜県岐阜市)についてでした。
美濃を攻略した織田信長は義理の父斎藤道三が築いた稲葉山城へ入りました。
そして消失した斉藤氏の居館跡を大改造して作られた信長の館にはいくつもの庭園があったと言われています。また自然の岩盤を生かした庭には滝が流れ、巨石列もありました。そして地上の楽園といわれたその館は賓客を迎える迎賓館であったとも言われています。
そして信長は長良川の鵜飼を接待の場として用いて漁師に鵜匠という名を与えて保護したと言われています。また信長は更に新しい町作りに励み、井ノ口と呼ばれた地を中国の故事にちなみ岐阜と言う名前に変更しました。
こうして美濃の新たなの領主となった信長はこの地を拠点に上洛を目指しました。
交通
織田信長公居館跡
JR「岐阜駅」からバス「岐阜公園歴史博物館前」下車、徒歩3分
第26話「御所・安養寺跡」
第26話は御所・安養寺跡(福井県福井市)についてでした。
足利義昭は越前の朝倉家を頼りこの地を訪れました。義昭は駿河から朝倉街道を使って越前入ったとみられています。現在も旧朝倉街道は残っています。
そして安養寺は一乗谷の中でも規模が大きく格式が高い寺院でした。義昭はこの寺に向かい入れられ敷地には御所も設けられました。
そして義昭は次期将軍候補として歓待を受け朝倉家ではたびたび饗宴が催されたといいます。また南陽寺では花見が行われ、庭の桜を題材に歌を送りあったと言われています。しかしそんな生活の中でいつまで経っても上洛に応じない義景を見限った義昭は一乗谷を離れ美濃へ向かいました。
交通
御所・安養寺跡
JR「福井駅」からバス「復原町並下車」下車、徒歩10分
第27話「開口神社」
第27話は開口神社(大阪府堺市)についてでした。
この地で国際貿易をしていた今井宗久は街の有力商人として名前が知れ渡っていました。そして堺に鉄砲の製造法が伝わるとこの地は鉄砲の一大産地となりその特需に湧きました。そのためこの地には現在も堺鉄砲碑や堺鉄砲鍛冶屋敷などが残されています。
そして宗久を始めとする商人たちは茶の湯を通して戦国武将たちと交流し、茶室では鉄砲や火薬等の商談が行われたと言われています。そんな堺の町は海と堀で守られ大名たちの支配を受けず、商人たちの手によって収められていました。
そして大寺さんの名前で親しまれている開口神社では会合衆と呼ばれる有力者たちが集まって政治や経済について話し合ったと言われています。そして会合衆であった宗久は会合衆と信長を繋ぎ、その役目を認められた宗久は信長に重用されるようになりました。
交通
開口神社
南海本線「堺駅」下車、徒歩10分
第28話「旧二条城復元石垣、京都御苑内」
第28話は旧二条城復元石垣、京都御苑内(京都府京都市)についてでした。
1568年足利義昭は織田信長とともについに上洛を果たしました。
将軍の仮御所となった本国寺は広い境内にいくつもの小寺院を抱える日蓮宗の大本山でした。そして今も本国寺西門跡が残されています。そして信長記によれば義昭が本国寺で三好三人衆の襲撃を受けた際、光秀は警備を担当したと記されています。
その後信長により造営された将軍の御所、旧二条城は深い堀と石垣が巡らされ門には矢倉もあったと言われています。そして現在も復元された石垣が残っています。更にこの石垣には京都中から集められた墓石や石仏も使われました。そのため旧二条城跡から発見された石仏は200以上にもなりました。
そして城作りにも関わった光秀は義昭の上洛をきっかけに政治の表舞台に立つことになりました。
交通
旧二条城復元石垣、京都御苑内
地下鉄烏丸線「丸太町駅」下車、徒歩5分
第29話「近衛邸跡、京都御苑内と興禅寺」
第29話は近衛邸跡、京都御苑内(京府京都市)と興禅寺(兵庫県丹波市)についてでした。
京都市の中央に位置する京都御苑。この場所にはかつて天皇家が過ごした御所を中心に公家の屋敷が立ち並んでいました。
そして室町時代の近衛家の屋敷は御所から1キロほどの離れた場所にありました。そして現在、屋敷周辺は同志社大学新町キャンパスとなっています。そんな近衛邸跡に残る石組は安土桃山時代のものだと考えられています。
そして若くして関白に就任した近衛前久は武家と強い繋がりを持つ人物で、関東平定を目指す上杉謙信と盟約を結び関東へ従軍するなど破天荒な様子をみせていたと言われています。
二条晴良と対立を深めた前久は京を出た後、丹波の国へと移りました。
そして前久は黒井城の麓にある下館に身を寄せました。そして現在興禅寺が建つこの地には前久が設計したと言われる庭が残されています。
そんな前久はその後も各地を転々とし再起の時を待ちました。
交通
近衛邸跡、京都御苑内
地下鉄烏丸線「今出川駅」下車、徒歩5分
興禅寺
JR「黒井駅」下車、徒歩15分
第30話「妙覚寺」
第30話は妙覚寺(京都府京都市)についてでした。
国宝、洛中洛外図屏風は足利義輝が狩野永徳に書かせたと言われています。そこには金閣や清水寺など今も残る名所や当時の人たちの営みが記されています。
そして御所の近くには織田信長が度々宿泊した妙覚寺が記されています。二条殿に隣接されていた妙覚寺は両替町通り沿いにあったといい、今は街の名前がその名残を留めています。
そして妙覚寺は豊臣秀吉によって現在の場所に移されました。日蓮宗である妙覚寺は美濃の斎藤家や道三とも縁があったことから信長はここを宿舎に選んだと言われています。
そして信長は妙覚寺を拠点に新たな国作りを目指しました。
交通
妙覚寺
地下鉄烏丸線「鞍馬口駅」下車、徒歩10分
第31話「国吉城跡と金ケ崎城跡」
第31話は国吉城跡(福井県美浜町)と金ケ崎城跡(福井県敦賀市)についてでした。
国吉城跡は越前と若狭の境に位置する美浜町にあります。朝倉攻めの前に信長はこの国吉城へ入り、この城へは光秀も訪れたと言われています。そんな国吉城には石垣や曲輪跡が残されていて、更に城主居館跡や本丸北西虎口跡、二ノ丸跡などがあります。
そしてこの城の麓では今も発掘作業が行われていて遺構や焼き物などが発見されています。
そして信長は三日間国吉城に滞在して敦賀へ進軍しました。
信長は手筒山城を攻め落とし翌日には峰続きの金ケ崎城を攻略します。
八幡神社はその際被災したと言われ、後に信長はこの神社を訪れて太刀を寄進したと伝わっています。
そして長政の裏切りによって撤退した織田軍。そのとき光秀と秀吉は殿を務めて国吉城を経由して京へ戻ったと伝えられています。そして信長を窮地から救ったこの金ヶ崎撤退戦で光秀は名を上げることとなりました。
交通
国吉城跡
JR「美浜駅」からバス「佐柿口」下車、徒歩5分
金ケ崎城跡
JR「敦賀駅」からバス「金崎宮」下車、徒歩10分
第32話「姉川古戦場跡」
第32話は姉川古戦場跡(滋賀県長浜市)についてでした。
小谷山に築かれた小谷城は北近江を収めた浅井氏の本拠地でした。そして離反した長政を討つため信長は姉川の南側に位置する龍ケ鼻岩砦に陣を敷きました。ここは現在の茶臼山古墳となっています。
そして織田軍は徳川軍と共に朝倉、浅井両軍と激突しました。現在、陣坑の柳が残されている場所で信長は指揮を取ったと伝わっています。
そして多くの死傷者を出したこの戦いで姉川の水は血に染まって赤くなったといい、その激戦が伝わったこの地の地名は現在血原と呼ばれています。そして現在この地にはちはら公園があります。
そして徳川家康が陣を置いた岡山は織田、徳川両軍が勝利を収めたことにより勝山と呼ばれるようになったと言われています。
この姉川の戦いで痛手を受けた朝倉義景でしたが巻き返しを図り信長の前に立ちはだかりました。
交通
姉川古戦場跡
JR「長浜駅」からバス「野村橋」下車すぐ
第33話「比叡山延暦寺」
第33話は比叡山延暦寺(滋賀県大津市)についてでした。
比叡山全域を境内とする延暦寺は最澄によって開かれた天台宗の総本山です。延暦寺は総本堂、根本中堂が大改修されていて、建物内では最澄が灯して以来1200年灯されているという不滅の法灯があります。
そして三井寺の名前で親しまれている総本山園城寺の光浄院は信長や義昭も立ち寄った格式の高い寺院です。
信長は園城寺の境内に陣を置き焼き討ちの指揮をとりました。そして織田軍は無動寺坂を駆け登り根本中堂や大講堂がある一帯を焼き払ったと伝えられています。しかし瑠璃堂は消失を免れ唯一現存する建物となりました。
そんな悲劇に見舞われた延暦寺は今も多くの人の信仰を集めています。
交通
比叡山延暦寺
JR「比叡山坂本駅」からケーブルカー「ケーブル延暦寺」下車すぐ
第34話「興福寺と菅田比賣神社」
第34話は興福寺(奈良県奈良市)と菅田比賣神社(奈良県奈良市)についてでした。
大和の国は久秀が平定した後も争いが耐えませんでした。そんな大和の国にある伝香寺には絹本著色順慶像の掛け軸があります。
そして順慶は久秀と対立した武将の1人です。順慶の家系である筒井氏は元は興福寺一乗院に属する僧兵を纏めていました。そして筒井氏は順慶の父の代で飛躍し大和最大の武士団に成長しました。
そして筒井氏は奈良県大和郡山市で築いた平城筒井城を拠点としました。現在は住宅街となったこの地には井戸跡や順慶が築いた順慶堤が残されています。
そして筒井城の中枢部には菅田比賣神社(すがたひめじんじゃ)があります。そして神社の境内に建てられている八幡神社は当時から位置を変えずに鎮座していると考えられています。
そんな筒井城はたびたび久秀との戦いの舞台となりました。そして数年に渡る攻防の末、順慶は久秀から筒井城を奪還し大和統一を目指しました。
交通
興福寺
近鉄奈良線「近鉄奈良駅」下車徒歩5分
菅田比賣神社(すがたひめじんじゃ)
近鉄橿原線「筒井駅」下車徒歩10分
第35話「常泉寺と頭陀寺城跡、松下屋敷跡」
第35話は常泉寺(愛知県名古屋市)と頭陀寺城跡、松下屋敷跡(静岡県浜松市)についてでした。
愛知県名古屋市は木下藤吉郎、後の豊臣秀吉が生まれ育った地です。しかし秀吉の前半生は謎に包まれています。この場所には豊國神社や豊臣秀吉母宅跡、日之宮神社などがあります。
そして常泉寺は藤吉郎が姉妹と共に育った家の場所に建立されたと伝わっています。境内には豊太閤産湯の井戸が残されています。
武士になるため家を出た藤吉郎は今川氏配下の頭陀寺の侍、松下家で武家奉公していたと言われています。そして頭陀寺内には今も松下稲荷堂が残されています。また松下屋敷跡、頭陀寺城跡などがあります。
その後信長の元で次々と武功を上げていく秀吉はやがて偉業を成し遂げました。
交通
常泉寺
地下鉄東山線「中村公園駅」下車徒歩15分
頭陀寺城跡、松下屋敷跡
JR「浜松駅」からバス「頭陀寺」下車徒歩5分
第36話「坂本城跡」
第36話は坂本城跡(滋賀県大津市)についてでした。
坂本は比叡山延暦寺の門前町として栄えました。そして延暦寺の監視と水陸交通の拠点として坂本城が築かれました。そして今も旧北国街道が残されています。
そんな坂本城は琵琶湖の水を引き入れた城郭に大小2つの天守があったと言われています。そして宣教師のルイスフロイスはこの坂本城を信長の安土城に継ぐ華麗な城だったと書き記しています。
坂本城は渇水時に湖中の石垣が現れますが、調査の結果沈下を防ぐための胴木が入れられていたこともわかりました。
そして聖衆来迎寺は光秀によって保護された寺で、この寺の表門は坂本城の櫓門を移築したものだと考えられています。
一国一城の主となった光秀は城下町を整備し坂本の繁栄に尽力したと伝えられています。
交通
坂本城跡
JR「大津京駅」からバス「下阪本」下車徒歩5分
第37話「槙島城跡、推定地と枇杷庄天満宮社」
第37話は槙島城跡、推定地(京都府宇治市)と枇杷庄天満宮社(京府城陽市)についてでした。
京都府宇治市は戦国武将に愛好されたお茶の生産地として知られています。
そしてかつて宇治川が流れ込んでいた巨椋池には島がありましたが、その島に築かれたのが槙島城でした。そして将軍足利義昭は織田信長に反旗を翻した際、この城に籠城しました。しかし義昭は信長による大軍勢に攻められあえなく降参しました。
そしてこの地には許波多神社の旧社地があり、そこには信長が陣を置いたとされる柳山があります。
そして誓澄寺の毘沙門天は槙島城の守り神として祀られていたものです。この毘沙門天は戦火の中城から持ち出されたと言われています。
中世から今も残る枇杷庄天満宮社、槙島城から敗走した義昭はこの地にたどり着きました。
そして京から追放された義昭は流浪を続け、その後鞆の浦で再起を目指しました。
交通
槙島城跡、推定地
JR「宇治駅」下車徒歩20分
枇杷庄天満宮社
近鉄京線「富野荘駅」下車徒歩15分
第38話「高桐院、大徳寺塔頭」
第38話は高桐院、大徳寺塔頭(京都府京都市)についてでした。
三渕藤英の居城があった伏見は水陸交通の要所として栄えていました。そして藤英の城は御香宮神社の東側にあったと記されています。
代々足利家に仕えた三渕家の嫡男だった藤英は足利義昭を将軍にするため奔走したと言われています。そして義昭が信長を倒すため出陣すると藤英は二条城を守り最後まで抵抗したと言われています。
そして高桐院は藤英の弟である藤孝の菩提寺となっています。細川家の記録には藤英の位牌はここにあると書かれています。しかし今ではその所在は明らかではありません。
そして坂本城で非業の死を遂げた藤英は将軍への忠義を貫き通しました。
交通
高桐院、大徳寺塔頭
JR「京都駅」からバス「健勲神社前」下車徒歩5分
第39話「西教寺」
第39話は西教寺(滋賀県大津市)についてでした。
琵琶湖を望む西教寺は光秀の妻熙子が埋葬されている明智家の菩提寺です。そしてここには明智光秀一族の墓があります。
比叡山焼き討ちの後光秀が復興に尽力したこの寺の総門は、居城坂本城から移築した物だと伝えられています。
そして熙子の葬儀はこの寺で行われ光秀も参列したと伝えられています。武士である夫が妻の葬儀に参列する事は珍しいことだったと言われています。
越前での苦しい生活の中熙子は髪を売って光秀を支えたという逸話があります。その内助の功は後々まで語り継がれ熙子の事は松尾芭蕉の句にも残されています。そしてここには熙子の墓もあります。
最愛の妻熙子を亡くした光秀は悲しむまもなく太平の世のため次なる戦へ向かいました。
交通
西教寺
JR「比叡山坂本駅」からバス「西教寺」下車徒歩1分
第40話「信貴山と達磨寺」
第40話は信貴山(奈良県平群町)と達磨寺(奈良県北葛城郡)についてでした。
大和と河内の国境に位置する奈良県平群町、そしてこの地にある信貴山には聖徳太子が建立した朝護孫子寺があります。そしてこの地は毘沙門天を祀っているため武士たちの熱い信仰を集めていました。
そんな大和を制圧した久秀は信貴山城を拠点として大改修を行いました。そして久秀の屋敷があったとされるこの地域には大規模な曲輪跡が残されています。そして信長に抵抗した久秀はこの地で応戦し、その際朝護孫子寺は焼け落ちたと言われています。
自害した久秀は宿敵順慶によって達磨寺に葬られたと伝えられています。そしてこの場所には久秀の墓があります。
三好氏の家臣から一国の主と上り詰めた久秀ははかなく散りました。その生涯はまさに戦国武将を代表するものでした。
交通
信貴山
JR近鉄生駒線「王寺駅」からバス「信貴大橋」下車徒歩5分
達磨寺
JR近鉄生駒線「王寺駅」からバス「張井」下車すぐ
第41話「安土城跡」
第41話は安土城跡(滋賀県近江八幡市)についてでした。
美濃と京の間に築かれた安土城。琵琶湖の水流を利用することができるこの地に信長は居城を移しました。そして今も大手道が残されています。
築城当時の安土城は琵琶湖に囲まれていて家臣たちは百々橋から城に入ったと考えられています。
そして信長が城内に建立した摠見寺には今も当時の姿のまま二王門と三重塔が残されています。
そして信長が居住していた主郭部には地上6階地下1階の絢爛豪華な天守が築かれていました。
また当時寺院でしか使われていなかった瓦を本格的に使用した安土城では多くの金箔が塗られた瓦が見つかっています。
そんな最新技術を用いた安土城は信長の権力を象徴する場所でした。
交通
安土城跡
JR「安土駅」下車徒歩25分
第42話「有岡城跡」
第42話は有岡城跡(兵庫県伊丹市)についてでした。
江戸時代酒造りの町として栄えた兵庫県伊丹市の伊丹駅一帯には、かつて明智光秀の娘お岸が嫁いだ有岡城の主郭がありました。そしてこの地には今も残る石垣が当時の面影をとどめています。
荒木村重の有岡城は町全体を掘りと土塁で囲んだ総構えの城でしたが、今も旧大阪道や外堀跡を利用した水路などが残されています。そして城の北端に位置する猪名野神社はきしの砦が築かれた場所で今も土塁が残されています。
信長は謀反を起こした村重を討つべく有岡城へ総攻撃を仕掛けました。そして織田軍の兵糧攻めの後、塁染寺付近にあった砦から内通者が出て有岡城はあえなく落城しました。そしてこの塁染寺付近には戦の際激戦地となった上臈塚砦(じょうろうつかとりで)がありました。
その後信長は荒木家に縁のある人をことごとく処刑しました。この時犠牲になった女性たちを弔う女郎塚が今も塁染寺に残されています。こうして有岡城の戦いで信長の残酷さを世の中に知らしめました。
交通
有岡城跡
JR伊丹駅、下車すぐ
第43話「八上城跡と福知山城」
第43話は八上城跡(兵庫県丹波篠山市)と福知山城(京都府福知山市)についてでした。
丹波富士の名で親しまれている高城山には明智光秀と対立した波多野氏の居城、八上城がありました。
そして光秀は八上城と対面する小山に般若寺城を築いて徹底的に兵糧攻めをしました。そして現在も般若寺城跡には正覚寺があります。
その後八上城を攻略した光秀は続いて黒井城を攻略しついに丹波平定を成し遂げました。
そして光秀が丹波支配の拠点を置いたのが福知山城でした。そして福知山城の天守閣には現在も光秀時代の石垣が残されています。
更に光秀は由良川の治水工事を行うなど城下町の基礎を作り上げました。そして由良川には今も光秀が築いたと伝わる堤防、明智薮が残されています。
また江戸時代から伝わる福知山踊りには光秀のことが伝えられています。そして福知山には今も光秀の面影が息づいています。
交通
八上城跡、登山口
JR「篠山口駅」からバス「十兵衛茶屋」下車徒歩3分
福知山城
JR「福知山駅」下車徒歩15分
最終回「本能寺の変」
今回は本能寺(京都府京都市)についてでした。
戦国最大のクーデター本能寺の変ですが、当時本能寺があった場所には現在石碑だけが残っています。そして今の本能寺は秀吉により現在の場所に移されましたが、境内には信長の供養塔があり今も多くの人が手を合わせています。
そして本能寺で信長を討ち取った光秀は山崎の合戦で秀吉に大敗し勝龍寺城へ入りました。その後光秀は北門から城を脱出し坂本城へ向かいました。そしてこの城の瓦は奇しくも本能寺と坂本城と同じ瓦で作られていました。
またこの地はたまが祝言をあげた場所でもあります。そして光秀の孫がその後細川家の家督を継ぎました。そして今もこの場所にはたまと細川忠興の像が残っています。
そして領民に親しまれた光秀の霊は福知山市の御霊神社に祀られています。そしてこの神社には江戸時代に建てられた拝殿があります。
世の安寧を求めた明智光秀。その名は今も人々に語り継がれています。
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